シャトー・パプ・クレマンについて
シャトー・パプ・クレマンは、グラーヴ地区にあるペサック・レオニャン村にあるグラーヴ格付けシャトーで造られているワインです。
ボルドーのブドウ栽培では当たり前となったブドウの幹を一列ごとに区別して植える方法をフランス全域においても最初に行ったシャトーと言われています。
32.5haほどの畑には赤ワイン用のカベルネ・ソーヴィニヨンとメルロと、白ワイン用のソーヴィニヨン・ブラン、セミヨン、ミュスカデルが植えられています。
また、シャトー・パプ・クレマンのセカンドワインはクレマンタン・デュ・パプ・クレマンといい、値段もファーストワインであるシャトー・パプ・クレマンの1/3ほどと気軽に飲む事ができると評判です。
シャトー・パプ・クレマンの歴史
シャトー・パプ・クレマンの歴史は13世紀からと古く、1299年にベルトラン・ド・ゴ司教がボルドーの大司教になり、ぺサック・レオニャンの「モット」と呼ばれるブドウ畑が領地として与えられ、そのブドウ畑でワインを造る事に魅力を感じた事からその歴史が始まりました。
その後、ベルトラン・ド・ゴ司教は教皇クレマン5世となった事で職務が忙しくなり、ブドウ畑を大司教館へ譲り渡す事にしました。
そんなクレマン5世の意志を受け継いだ歴代の大司教たちはブドウ畑の運営を引き継ぎ、ワイン造りの設備を整えていきました。
しかし、18世紀の終わりにはボルドーの大司教は財産を没収されてしまい、領地は民間のものとなります。
複数の所有者の手に渡り、ブドウ畑はフィロキセラなどの被害に遭いながらもボルドーのワイン商ジャン・バプティスト・クレールが購入し、ジロンド農業組合からは金賞を、1878年のパリ万国博覧会では大賞を受賞するなど、ワインの品質を高めていきました。
しかし、1937年には雹の被害に遭い、ブドウ畑は壊滅的な状態となってしまった事によって、農業工学者であったポール・モンターニュの手に渡り、彼の献身的な畑の改革によって以前の名声を取り戻します。
しかし、1975年以降から細部への注意不足や設備への投資を怠り、出来の悪いワインが目立つようになり、その名声を落としてしまいます。
その落ちた名声を取り戻したのがベルナール・プジョルという人物で、彼がシャトー・パプ・クレマンに雇われた事により、シャトー・オーブリオンやシャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオンなどと肩を並べるほどのワインを生み出しました。
そんなシャトー・パプ・クレマンの名称の由来は、教皇クレマン5世がその由来となっており、教皇という意味を持つ「パプ」と合わせてシャトー・パプ・クレマンと名付けたそうです。