シャトー・ペトリュスの歴史
シャトー・ペトリュスは18世紀中頃からその名が記録に残されており、当初はアルノー家が所有していたものでした。
1878年のパリ万国博覧会で金メダルを獲得した事からシャトー・ペトリュスの名は知られるようになっていき、20世紀初頭にはアルノー家は会社として設立し、株式を一般公開しました。
こうして様々な実業家たちがシャトー・ペトリュスの株を購入していき、1925年頃からはエドモン・ルバ(通称マダム・ルバ)という人物がシャトー・ペトリュスの単独オーナーとなりました。
第二次世界大戦を経て、ワイン商のエスタブリスモン・ジャン=ピエール・ムエックスと手を組み、シャトー・ペトリュスを世界的に売り出していく事となります。
こうしてシャトー・ペトリュスは、アメリカで絶大な人気を得ましたが、1956年の冬に霜の被害がボルドー全体を襲ったため、シャトー・ペトリュスのブドウ畑では2/3が枯れてしまいました。
エドモン・ルバは新しい樹を植えるよりも残った樹に新しい蔓を接ぎ木する方法を取り、これが見事成功し、現在でもシャトー・ペトリュスの手法として受け継がれています。
現在のシャトー・ペトリュス
エドモン・ルバが亡くなると、シャトー・ペトリュスの名声と売上は上がっていきましたが、内部では相続争いが行っていました。
そのため、エスタブリスモン・ジャン=ピエール・ムエックスが事業を引き継ぎ、ワイン醸造学者のジャン=クロード・ベルエを迎え、近隣のシャトー・ガザンの畑を5ha買い足しました。
その後、ジャン=ピエール・ムエックスの息子たちが事業を引き継いでおり、フランス国内での販売を規制し、フランス国外への輸出の量が多くなっています。
シャトー・ペトリュスの生産量
シャトー・ペトリュスでは11.4haのブドウ畑を所有しており、そのうちの5%がカベルネ・フランを植えていますが、このブドウは使用せず、メルロ100%でワイン造りを行っています。
しかも、「グリーンハーベスト」と呼ばれる、色が変わる前のブドウを間引きしてより良い品質のブドウを育てているため、収穫量が少なくなってしまいます。
そのため年間生産本数は4500ケースほどとなっており、そのほとんどが輸出されています。
なかなか市場に出回らない事から「幻のワイン」と呼ばれており、愛飲家の間では所有する事がステータスとされており、毎年争奪戦が繰り広げられています。